私たちのこと

会津 亜紀|プランナー

1977年生まれ(巳年)蠍座、A型

茨城県出身。周囲は見渡す限りの田園で、小さい頃の趣味は虫とり

趣味は山歩き、庭いじり、ヨガ、着物

鎌倉で夫と3人の子供たちと暮らす

  • 大学では美術史学を専攻。作品鑑賞より美術館の空間に心地よさ興味を持つ。同じ頃、安藤忠雄を知り建築の面白さに目覚め、内装会社の公共空間事業部に就職。プランナーとして、デザイナーと施主の間で調整業務などを行う。特に数年かけて携わったプロジェクト「国立科学博物館」で自然科学について学んだことは貴重な経験
  • 結婚後初めて購入したマンションを、自然素材を使いフルリノベーション。ガラッと空間を変えられるリノベーションやインテリアにはまる
  • 都心での生活を満喫したのち、12年前に逗子市に移住、その後鎌倉へ
  • 鎌倉で3戸の家をリノベーション(マンション、日本家屋、アトリエ付き一軒家)
  • 鹿児島でシンケンスタイルの家を見て以来、くらしを大事にした家づくりを仕事にしたいと考えるようになる

志水 龍|設計士

1967年生まれ(未年)魚座、B型

二級建築士

京都市で生まれ育つ。小中高校までは野球一色

  • 大学卒業後、当時、世界最大手のデザイン事務所に入り、インダストリアルデザイン、グラフィックデザイン、環境デザインを学び、ものづくりや商品企画を行う
  • 京都の大手デベロッパーにて、土地の開発作業、分譲住宅企画・設計、販売企画を行う。無印良品にMUJIの家具を使った住宅商品の企画を提案し、モデルハウスをつくる
  • 木造住宅の在り方を問う阪神淡路大震災を目の当たりにし、日本の木の家の構造を考え直すべく、耐震強度を重視する木造建築構法(SE工法)を提供する会社に転職。住宅の構造計算の必要性とそのメリットを生かした設計手法を広めるべく全国の工務店、建設会社にコンサルティングを行う
  • 京都に戻り地元工務店の新規住宅ブランドの立ち上げに参加した後、独立。高気密高断熱の新築注文住宅、町家の改修などを手がけ、現在に至る

“はじまり”の話

野球少年の夢と安藤忠雄

会津亜紀 (以下A):家に関わることが好きな主婦と、長いキャリアがある設計士がどうして組んだのか?みなさんきっと不思議だと思うので、少し私たちの説明をした方がいいと思うんですよね。

志水龍(以下S):だと思います、笑。まずは2人のルーツとキャリアからいきましょうか?

A:志水さんは京都生まれ京都育ち、野球少年だったんですよね。

S:小学校3年くらいから始めて野球一筋でした、小6の時に京都府で3位、高校時代はベスト8でした。燃え尽きましたね。そこから頭を切り換えて受験、現役合格は無理でしたねー、笑。1浪して大学に入り、デザインを学び始めました。

A:大学でデザインを学ぼうと思った理由は何かあるのですか?

S:僕は野球と、絵を描くこと、あと書道が小さい頃からずっと好きだったんですよね。当時は空前のスーパーカーブームで、カーデザイナーに憧れて大学に進学しました。大学2年の時に授業で安藤忠雄さんが紹介されて、ストイックな造形や、禅の精神に憧れて、建築の方向を目指しました。そのあとは安藤建築一色、建築巡りや初期作品のドローイングを一心不乱にやっていました。課題も相当影響受けてましたねえ。

A:安藤忠雄!私も大学時代に知って影響を受けました。

S:亜紀さんは美術史を大学で専攻されてますね。

A:はい。私も中学高校と美術の授業が大好きでした。住んでいたのは茨城県北部ですが、祖母が川崎に住んでいたのもあり、ひとりで横浜や東京の美術館に行ってましたね。 でも、美大に行く自信はどうしても出なかったんです。だからできるだけ造り手の近くにいたいなーと思って美術史を専攻したんです。当時は学芸員に憧れていました。

仕事と家庭と出会い

S:でも空間デザインの会社に入社したのはどうしてなんですか?

A:色々な美術館に行っているうちに、美術館が空間の作り方でかなり印象が変わるんだなあと、とその面白さに目覚めました。私が安藤忠雄の建築巡りをしていたのもこの頃です。偶然、文系でも入社が可能な空間デザインの会社を見つけて、ここで制作の現場の近くにいられたらなと思って入社しました。

S:僕が新卒で入社した会社は総合デザインの会社でした。僕は建築や環境のデザインを主に担当していましたが、グラフィックデザインやプロダクトデザインでやってみたいプロジェクトは、スタッフとして参加してましたよ。そこで10年間、自分のアイディアが価値に変わっていくプロセスを学ばせてもらいました。

A:仕事を通じていろんなデザインを吸収できたんでしょうね、楽しそうです。
私は博物館などの文化施設を作る部署にいました。お客様とデザイナーの間で調整役みたいな仕事です。色々な分野の専門家とお仕事ができるので、充実していたのですが、仕事とプライベートのバランスを取るのはなかなか難しくて。 出産を考え始めた頃、この仕事を離れました。そのあとは子育てが始まって育児に追われていましたね。

S:僕は20代後半に阪神大震災を経験したんです。しっかり設計しないと家が凶器になることを痛感して、地震に強いSE工法を提供する会社に転職しました。
そこでは構造の大切さを日本中の工務店さんにアピールし、お手伝いをするため全国各地に出張していました。
きちんと構造のことを考えると、地震に強いだけでなく大空間のある家も作れるんです。SE工法のメリットを活かした大きな吹き抜けのあるモデルルームを工務店さんのために設計したりしていました。

A:この頃に、逗子に住んでいたんですよね?

S:ええ、会社は都内でしたが、子育ては自然豊かなところでしたいという妻の希望もあって、逗子にかれこれ3年間ほど住んでいました。
京都しか住んだことがなかったので、海の近くの暮らし、新鮮でした。 本当にウェットスーツで町内を歩いているおじさんがいて、、カルチャーショックでした、笑。
でもその地域らしい暮らしがあるんだなあ、ってだんだん理解できてきて、ウェットスーツが素敵に見えました。 今となっては良い経験でしたねー。

A:私も都内から逗子に引っ越して2年ほど暮らして、鎌倉に移って10年になります。実家以外では今までで一番長く住んだ街です。その後、志水さんはどんな仕事をしたのですか?

S:構造の会社で、あるブランドのスケルトンハウスの家を提案したりした後、自分で一から設計してみたくなって、京都に帰って、冬暖かく夏涼しい新築や、町家の再生やリノベーションなどの提案を続けてきました。日本の家はもっと良くなるし、ならないと生活の質が上がらないって信念のように思っていましたね、いまでも変わらない部分ですが。

A:その信念はもういつも会話の端々から感じます。ちなみにそのスケルトンハウスは、私も興味があっていくつか見に行きましたよ。

S:そうなんですね。 亜紀さんは家に関すること大好きですよねえ。 仕事で空間デザインに関わった以外に何かきっかけはあるんですか?

A:元々住宅メーカーのチラシのプランを眺めているのが好きな子だったんですが、原点は20代の頃に、築40年以上のマンションをリノベーションしたことですかね。
当時はやり方を教えてくれるところもなく、自分で工務店を探して、ネットで商品を調べまくって、手書きで図面を描いて、なんとか完成させました。
その過程と、出来上がった時の喜びが最高で。。。。合計マンション2戸、一軒家2軒、同じようなことをしています。笑

S:どこよりも自分の家にいることが大好きだって言ってましたもんねー。設計者としたら、お客さんにそう言われたいものです、笑 。
で、最近までしていた町家の仕事を通して、僕は亜紀さんの旦那さんに出会ったんです。

未来に残せるすまいをつくりたい

A;そうそう、夫が初めて志水さんに会って帰宅して、「すごく面白い建築士の方がいる、波長が合うと思うから一緒に仕事してみたら」と突然言われたの覚えていますよ。聞いた時は「?」って感じでしたけど、、、。

S:ハハハ。そりゃそうですよね。

A:でも、今から10年くらい前に衝撃の体験をしていて、そこから家づくりに関わりたいとはずっと思ってたのは事実です。

S:どんな体験ですか?

A:学生の時からの友人が、鹿児島のシンケンスタイルという工務店さんで家を建てて、「日本一の工務店にお願いした豪邸なんだよ、遊びにおいでよ(笑)」っていうんですね。
私は工務店で日本一?って思いながらとりあえず遊びに行ったら衝撃でした。

自然素材の経年変化が美しい、鹿児島の友人宅

建築家で建てました!みたいな個性的な家か、湘南によく見るような白いキューブのような家が豪邸という発想だったんですけれど、全然違うんです。
ふんだんに使われた木材、経年変化が美しい木の外壁、大工さんの手仕事が光る細部、、暖かで静かな室内、家にいると本当に気持ちが良くて。
こういう暮らしを提案する会社、私の身近にもあったらいいのにと思ったのです。

内部の様子。ダイニングからキッチンを見たところ

S:シンケンスタイルは僕も学生時代から動向を追っている会社です。くらしからすまいを提案する先駆け的な存在です。

A:志水さんに初めて会った時、シンケンスタイルの話で盛り上がって、考えてることを理解していただける、と感じました。

S:僕が亜紀さんに思ったのは、、、
設計者って実は生活者の視点に欠けていることが多いんですよね。僕もわかったふりして話を聞いていますがそんな1人です。
ちゃんとした住宅建築を、今作らなきゃと強く思ってますけれど、建築家と言われる人が主体の家はなんか違う気がするんですよ。
亜紀さんは主婦という生活者でもあり、こちらの設計意図も汲んでもらえる。そこに可能性を感じました。

A:ありがとうございます。
会社員時代を思い返しても、設計業務ってかなりハードですからね、なかなか生活者の視点持ちにくいかもしれないですよね。
私は生活がメインでしたので、居心地の良い住まいについてあーでもないこーでもないと考えていたわけです。
当初は京都ー鎌倉間の物理的な距離もあるし、働くって現実感がなかったのですけれど、2020年のパンデミックが起こり、これだけオンライン化が進めば、自分も仕事ができるかもしれない、と考えるようになりました。
志水さんと実際に会ってお話ししたりするうちに、私の専業主婦として生活してきたことを活かせるかもと、今に至ります。
色々教わって、日本の住宅が大きな転換点にあることも分かってきて、これらの情報を私のようなごく一般的な生活者の方に伝えるべき、と使命感すら出てきました。デザイン優先で生きてきた私としては、大きな変化です。笑。

S:僕の思いを理解してくれてありがたいです。 もっと多くの人にまず聞いて欲しいんです。
こんなの必要ないやー、でもいいんです。まずは聞いてほしい。あとから、聞いてなかったよ〜っ、てならないようにして欲しいんです。この業界のものとして、伝える義務があると思うんです。
日本の住宅の普通のレベルは上げられるんです。室内の暑い寒いでストレスを受けない、地震や台風などの自然災害の時にも安心して住める、今の技術があれば十分に普通の仕様になるはずなんです。
町家のような古い住宅でも十分に生活にストレスのないところまでリノベーションができるんです。 でも、いまだにこの辺りの話が普通になりきっていない、日本の住宅の問題点です。

A:志水さんの再生された町家、エアコン一台で十分暖かくて快適で、びっくりでした。 京都はまだ街並みが大事にされているとは思いますが、鎌倉に住んでいると悲しくなるようなことが時々あるので、景観に配慮した設計や、環境問題に対応した家作りも、特別なことではなく普通のことになってほしいと思います。

S:過去から学ぶことはたくさんあります。京都に暮らしているので常に勉強になりますね。美しいなと思える形のことや、長く続けるための知恵など、、、、 あとは現代の技術を加えてより長くその伝統をつなげていくこと。 住まいも次の世代が喜んで引き継いでくれるようなものを提案したいと思っています。

A:服でも、家具でも、良いものを長く使うという選択肢があるのに、家はその選択肢があるのかないのかすら、私にはよくわからなかったんです。だからでしょうね、意匠的なデザインばかりを気にしていました。
今は意匠デザインと同時に家そのものの性能をきちんと考えようという意識に変わっています。

S:性能ばかりではね、もちろんカッコ良さもだいじです。
家はね、こんな不安定な世の中だからこそ、その家族のプラスのエネルギーの源になると思うんです。
そうなればまたみんなに愛され、大事にされ、さらにカッコよくなっていく。性能とデザインは両立させ、住まい手の満足はもちろんですが、社会的にも意味のある家づくりをしたいですよね。
ネイティブ・アメリカンの言葉に「土地は祖先からの授かり物ではなく、子供たちからの借りもの』って言葉があるんですが、、未来の子供たちのために、僕らは何ができるのか?真面目に考えたいですし、これまでの僕のキャリアはそのために使いたいと思います。

A:はい!
鎌倉にはそういう住まいづくりを望む方々がたくさんいると思います。どうぞこれからよ ろしくお願いします。

2023年秋 最近のわたしたち